■菜の花と白壁の古村
中国江西省の北東端、峻烈な山々と清流に囲まれた小さな村・婺源(ぶげん)。春の婺源を一度でも訪れれば、この地が「中国で最も美しい田舎」と呼ばれる理由が分かると言われている。毎年3月になると村の景色は一変し、見渡す限りの菜の花が山も谷も黄金色に染め上げるのだ。
菜の花だけではない。桃の花の艶やかなピンクや梨の花の清楚な白が差し色のように混じる。白壁と灰色の瓦屋根が印象的な古民家群と見事なコントラストを描き出す。得も言われぬ景観に加え、花の甘い香り、小川のせせらぎ、古い集落から立ちのぼる炊煙の匂いと、五感まるごと持っていかれる心持ちになる。都会暮らしで磨り減った心に、じんわりと染みる原風景がここには広がっているのだ。

■棚田の絶景、江嶺と篁嶺
春の婺源観光では江嶺(こうれい)と篁嶺(こうれい)と呼ばれる棚田がニ大名所となっている。江嶺は「中国4大菜の花の海」のひとつに数えられ、約6700ヘクタールにも及ぶ棚田が山肌を鎧のように幾重にも覆うスケールに圧倒される。黄金色の波の中に古い集落が点在し、山頂の展望台から眺めれば、朝霧が立ち込めた日にはまさに「天上の世界」だ。写真でも十分に美しいが、現地の迫力はその比ではない。
一方の篁嶺は「世界十大棚田」にも選ばれた実力派である。全長1260mのロープウェイで一気に空へ上がり、さらに300mに及ぶ高空のガラス桟橋から見下ろした棚田の幾何学模様のスケールには、思わず声が漏れる。最近ではヘリコプターやVRを使った鑑賞も導入されていて、伝統の田園風景を現代の視点から楽しめるのも面白い。

■徽派建築という名脇役
菜の花畑を一層引き立てているのが、この地域に特有の徽派(きは)建築だ。「白壁、黒瓦、馬頭壁」が三大特徴で、美しさと実用性が見事に両立している。
白壁は南方の高い湿度から木材を守ると同時に、光を反射して室内を明るくする。屋根にそびえる馬頭壁は、隣家への延焼を防ぐ防火壁から生まれたデザインだ。そして青黒い瓦は雨に濡れると苔の緑と混ざって深い墨色を帯び、風景全体に水墨画のような静けさをまとう。
思渓村や延村の古建築群を歩けば、レンガ・石・木に施された「三彫」と呼ばれる精緻な彫刻が至るところに残る。かつてこの地で財を成した地元商人たちの美意識が、数百年を経た今も息づいている。


■暮らしが息づく村々
婺源が特別なのは、博物館ではなく「生きた村」であることだ。曉起村では樹齢を重ねた樟の大木が集落をすっぽり包み込み、石畳の路地には昔ながらの暮らしが今も脈々と息づいている。
標高約500mに位置し千年以上の歴史を持つ査平坦は、春の朝に一面の雲海が広がる「天上の村」だ。霧の合間から浮かび上がる民家と桃や梨の花のシルエットは、現実と夢の境目がぼやけてくる。
麓の月亮湾(げつりょうわん)では、三日月形の川面を小舟がゆっくりと滑り、岸辺で洗濯をする女性たちの姿が風景にさりげない温もりを添えている。人の暮らしと自然が溶け合っているからこそ、この地の春は心に残る。

■見頃・アクセス・グルメ
菜の花の最盛期は例年3月中旬から4月上旬、ちょうど清明節の前後にあたる。高速鉄道の婺源駅が玄関口で、主要都市からの直行便も多く、アクセスは良好だ。
訪れたからには地元グルメもぜひ試したい。蒸し米の軽食「汽糕(チーガオ)」は、エビやもやし、干し筍といった具材の食感に辣醬のピリ辛が効いた素朴な逸品である。
また、宴席の定番「糊豆腐(フドーフ)」は肉やキノコを高湯で煮込んだとろとろの豆腐料理で、仕上げに添えられるシュンギク系の香草がなんとも食欲をそそる。風景も胃袋もたっぷり満たされる旅になるだろう。
森林率82%を誇り、「天然の酸素バー」とも称される婺源。朱子学で知られる思想家の朱熹が愛したと言われる清浄な自然は今なお守り抜かれている。菜の花と古村が織りなすこの春の風景は、日常の重圧をふっと忘れさせ、自然の一部としての自分を思い出させてくれる。一度は自分の目で確かめてみたい場所だ。





